こんばんは。
昨日が去年の大晦日のように思えます。
何も無かった訳じゃないけどね。
ただすごく疲れた。疲れたな。みんなしねー!!!
というのは嘘で。
2011年を振り返ると。
1,2,3,4,月は震災もありながら、
都内を彷徨って、微睡んでいた記憶しか無い。
こんなんでいいのかなーというのを抑えながら。
あとは、FILMREELは2曲ほどレコーディングしたのかな。
4月5月ではcodcokeではOHPによるアナログVJのスタッフとして活動し、
7月にはダモ鈴木(ex.CAN)とのセッションライブのノイズ担当を果たし
FILMREELはベース赤川桜の加入により活動再開し8月にライブをし、9月には
唯一のオリジナルメンバーで四年間後ろで叩いてくれていた
堀くんが脱退。うすうす気付いていたけどさ。あとは身元を離れてまた彷徨ってた。
悲しいことがいつも以上に多かったのかな。どうだろう。そんなことないか。
10月にはBIASという、他で組んでいたバンドを全力で昇華するべく、鳥肌実の出演前ながら
足を負傷する事故を起こしつつも全力で出し切り
11月にはFILMREELのライブ音源を出す。堀が脱退してから9月10月と
レコーディングスタジオでマスタリング及び、
ベースの赤川宅でジャケットやサイトを制作していた記憶しかない。
12月はルリマグネットさんこと、梅山智枝美さんの初個展のライブで
久々に、ギャラリーコンシールにてソロで色々な人とライブをする。
赤川の展示のクロージングパーティでもセッションライブをした。
とにかく今年は酒を飲んだ。
そして、もう一度、会うことが出来たなと思う。それは本当に嬉しかった。
想像の中だと思ってた。
繰り返す記憶を反芻するだけなのかなって、ずっと思ってた。思ってる。
もしかしたらどうにもならないはなしなのかもしれないけど。これからもね。
来年に託す希望、というのは、あえてやめておこう。
僕がどうにかする年なのだ。歳なのだろなぁ。
とにかくこういうことを書くと杞憂に埋もれそうになります。
内側ではおそらく、面白くなっております。まだ言わないことにします。
良いお年を。
来年は憂いを拭えれば良いな。少しでもなにか。なにかを 探そうかな。
村井隆文
2011/12/22
いっぱいある雲を掴めないだけ。
と思えば確かに、色々なことが浮かんでくるものだな。
おれは枯渇して、もう使い物にならないと思っている最中なんですが、
これはたしかに良い言葉だと思う。
まだ何もみつけてない。一部しか。まだなにも引き出してないと思うことにしよう。
なにもみつけてない。悲観的でもなく。確かにそのとおりだ。
現に頭の中は昇華したい音楽でいっぱいである。それを形にして蒸発させたいと思ってる。
目先のことだけに捕われているけどね。正直なところ。
やっぱり、常々思うことは、もう終わった日々を反芻して生きてるなってこと。
これからノスタルジア依存して、明日を生きなくなるんだろうなっていうのは杞憂にしろ、
おれはなんかもう、心から激しくなるような出来事がそんなに無くなってるなってこと。
それにつれて、包み込むような妙な不安が襲っていること。変化のない鈍く重いもの。
それはもしかしたら本当に幸せなのかもしれないけれど。
初期衝動なんていうものは、しょうもないものだと思ってる。
宴会で少し話の種になるだけ。自分の履歴書兼、今の自分を棚に上げれる
最大のポップネスな話題でしかない。
それを目の当たりにすると確かに楽しい。が、しかし同時に、今の自分を
とてつもなくつまらないものだと、追いやってしまうものだ。
ひょっとして、終わったあとの抜け殻なんじゃないかってね。
納得したくて何かをしてるつもりはない。というと嘘になる。
それでも夜明けの空は美しかった。
とかいう放り投げつつも解決したようでいて何も本質に触れてない
感じで終わりにしておこう。笑 夜明けじゃねーけど。笑
話は別として、
僕はバンドで苦労してない人といったら違うと思うほうだから
周りのバンドには言いたいのですが、
ひとつひとつのライブは刻み込んで欲しいなと思う。自分にも見に来てくれる人にも。
回数を重ねるようなライブは確かに不毛で虚しいと思うけれど、
ライブ活動というのを忌み嫌うのはつまらないよ。
サウンドクラウドやら、マイスペースやらのフォローとか
気にしたりしながら机の上で過ごするのは。
たしかに客は来ないことだって多いと思うけど。
結局バンドは集合体で、 自分だけ思っていても、何れ欠けて失われていくものだから。
そうじゃないバンドも多いけど、おれは少なからずそうだったわけで。そうであるわけで。
生を観たいし感じたいと思うのに、そこにあるのはCD-Rっていうのには
そろそろ本気で鬱屈としているんだ。
見せろ、そしておれも見せる。
じたばたですよ。そんな思いで。ずっとね。こんなこと言うのもつかれるほど。
それでは。
と思えば確かに、色々なことが浮かんでくるものだな。
おれは枯渇して、もう使い物にならないと思っている最中なんですが、
これはたしかに良い言葉だと思う。
まだ何もみつけてない。一部しか。まだなにも引き出してないと思うことにしよう。
なにもみつけてない。悲観的でもなく。確かにそのとおりだ。
現に頭の中は昇華したい音楽でいっぱいである。それを形にして蒸発させたいと思ってる。
目先のことだけに捕われているけどね。正直なところ。
やっぱり、常々思うことは、もう終わった日々を反芻して生きてるなってこと。
これからノスタルジア依存して、明日を生きなくなるんだろうなっていうのは杞憂にしろ、
おれはなんかもう、心から激しくなるような出来事がそんなに無くなってるなってこと。
それにつれて、包み込むような妙な不安が襲っていること。変化のない鈍く重いもの。
それはもしかしたら本当に幸せなのかもしれないけれど。
初期衝動なんていうものは、しょうもないものだと思ってる。
宴会で少し話の種になるだけ。自分の履歴書兼、今の自分を棚に上げれる
最大のポップネスな話題でしかない。
それを目の当たりにすると確かに楽しい。が、しかし同時に、今の自分を
とてつもなくつまらないものだと、追いやってしまうものだ。
ひょっとして、終わったあとの抜け殻なんじゃないかってね。
納得したくて何かをしてるつもりはない。というと嘘になる。
それでも夜明けの空は美しかった。
とかいう放り投げつつも解決したようでいて何も本質に触れてない
感じで終わりにしておこう。笑 夜明けじゃねーけど。笑
話は別として、
僕はバンドで苦労してない人といったら違うと思うほうだから
周りのバンドには言いたいのですが、
ひとつひとつのライブは刻み込んで欲しいなと思う。自分にも見に来てくれる人にも。
回数を重ねるようなライブは確かに不毛で虚しいと思うけれど、
ライブ活動というのを忌み嫌うのはつまらないよ。
サウンドクラウドやら、マイスペースやらのフォローとか
気にしたりしながら机の上で過ごするのは。
たしかに客は来ないことだって多いと思うけど。
結局バンドは集合体で、 自分だけ思っていても、何れ欠けて失われていくものだから。
そうじゃないバンドも多いけど、おれは少なからずそうだったわけで。そうであるわけで。
生を観たいし感じたいと思うのに、そこにあるのはCD-Rっていうのには
そろそろ本気で鬱屈としているんだ。
見せろ、そしておれも見せる。
じたばたですよ。そんな思いで。ずっとね。こんなこと言うのもつかれるほど。
それでは。
2011/12/07
ルリ•マグネットさんの初個展「花散る夜に微笑みを」の
オープニングパーティに呼ばれ、僕はソロ名義でライブしてきた。
「花散る夜に微笑みを」の映像作品は僕が音楽を制作した。
展示会場に静かに鳴り響く音が心地よかったし、耳に残った。
とても嬉しい光景であった。
紫陽花の脈と、生き物の鼓動の空間。という感覚。
演奏者の皆の音が煙のように充満して、空間を満たしていた。
マイさんの作品を目の前で、観られたのは幸せだと思う。
今月11日の20:00まで展示しているらしいので、是非、渋谷ギャラリーコンシールへ
観に来てください。お酒もケーキも美味いです。
少し自分の音楽について思ったのは、泣かせる曲は苦手だけど、
自分が泣きたいが為になら曲を作りたいかなってこと。
人を感動をさせられないし、答えに基づく納得を与えることが出来ない。
淡々と、虚しく落下するように曝け出すだけだ。理解でさえされてやしないかもしれない。
けど、その不確かを人の確かに出来れば、それは凄く良いことよね。
ボーズオブカナダや、フッドなどを聴いてると尚それを強く思うところ。
それでは。
2011/12/02
これからも味わうことになるだろうし、
実際にはまだ何も味わっていないのかもしれないんだけれど
茨の道ということが如何に茨の道なのか、言葉にするのは簡単というのは
喉につっかかるように、今、感じるね。
じっさいもんだい、何も言えなくなっていくし、何も言わなくていいし
誰もをそれを求めてはいかない。これからも。仕方が無い。
そのなかで、何故、どうして。何の為に。
それをずっと味わいながら、冷たい路上を這いつくばるようにというと、大袈裟か。
でもまあ、棒だけで火を起こす、みたいだよね。変わらないよね。
世間と自分。隔離する、出来るわけないだろう。
全く世間に通用しないんじゃないかって、そう思う時の方が多いし、ほとんど。
通用っていうのは、人としてスキャンされていく、か。ってこと。
お花屋さんになりたいって言ってる子供をあやしているときの
小学校の先生のような顔をされるだけかな。
どうしようもない人をどうしようもないままに。
それでは。
実際にはまだ何も味わっていないのかもしれないんだけれど
茨の道ということが如何に茨の道なのか、言葉にするのは簡単というのは
喉につっかかるように、今、感じるね。
じっさいもんだい、何も言えなくなっていくし、何も言わなくていいし
誰もをそれを求めてはいかない。これからも。仕方が無い。
そのなかで、何故、どうして。何の為に。
それをずっと味わいながら、冷たい路上を這いつくばるようにというと、大袈裟か。
でもまあ、棒だけで火を起こす、みたいだよね。変わらないよね。
世間と自分。隔離する、出来るわけないだろう。
全く世間に通用しないんじゃないかって、そう思う時の方が多いし、ほとんど。
通用っていうのは、人としてスキャンされていく、か。ってこと。
お花屋さんになりたいって言ってる子供をあやしているときの
小学校の先生のような顔をされるだけかな。
どうしようもない人をどうしようもないままに。
それでは。
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